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SOMETIME JOURNAL BY MYP
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●先月の日記を読む

myp movie 7-14 new
*今月のムービー
[湧き上がってくる感情を抑えずに激しく露にする必要がある]


7-29-2003 [プロポーザル自慢]

ニコラスはとっくにどっか行ってしまったんだろうと思っていたら、先日ドアの呼び鈴がなるので、覗き穴から見てみるとニコラスだった。
連絡なしに立ち寄った理由はランドリーだった。
因みに、私は洗濯が大好きである。とりあえず、うちに居候、或いは他に泊まってる場合でも、何はさておき『洗濯』にお誘いする。

何しろ、バンコックにはコインランドリーと言うのがほとんど存在しない。
ランドリーはあるけど、それは持ち込んだものを洗濯して干してたたんでくれるサービスをする所の事で、一枚につきいくらとチャージされるので、重なると結構な金額になるもんである。

二層式の洗濯機は大活躍なのだが、日本以外ではあまり馴染みのないモデルなので、外国人の面々は使い方が興味津々みたいである。

そんな訳で、彼のランドリーをする間、写真展の話。
11月にタイの外国人記者クラブで写真展をする事になっている彼。その為にまたプロポーザルを書いていると言っていた。
最近彼と会うと、『プロポーザル自慢』状態になる事がある。
とりあえず彼が興味を示していたので、この間の写真展で使った巨大プリントを見せてあげた。
見せるのは簡単だけど、しまうのが面倒な代物。案の定、そのデカサに驚いていた。
来週からはビルマに行って、その後フランスに戻るらしい。

Actionaidのデビッドさんがバンコックに戻ってきた。9月からは彼がアジア地区のエイズ関連の活動の一手を担当する事になるそうで、近々に会う事になっている。
CDCのカンボジア担当者のジャックさんは『今、オーストラリアで、4日にはカンボジアに帰るから、スライドショーで会えるのを楽しみにしているよ』とメールをくれた。

もうすぐの事なのに、まだ場所が決まってない。現地に行ったら急いでいろんな所を回らなければ…。やっぱり、今回の写真展はより多くの人に見てもらわなければいけない。プノンペンのFCCにもまた資料を見せてみよう。

ようやく雑誌の件で企画書とポートフォリオ作りが終了し、亮君宛てに郵送も終了したし、またエイズのプロジェクトの準備にとりかかり始める。

ドクターのパソコンは千葉の女性が寄付を申し出てくれた。しかし、今、バンコックまで配達してくれる人を探している。8月6日頃までに、バンコックに来る予定の人はいないだろうか…。心当たりがあったら、連絡下さい。

journal=youme.

7-26-2003 [るろうに]

そんな訳でマサさん出発しました…。

久々に完璧一人の生活で、色々と手付かずになっていた件を少しずつ片付けている段階。
ひとまずはこの夏の件で、プロポーザルをようやく書き終えた。(日本語だったら問題ないのだけれど、英語のプロポーザルは一大仕事である)"Who Cares?"のスライドショーをプノンペンでも行うという企画…について。
場所はNGOなどの施設、なんとしても実現させたいのがお寺でのプレゼンテーション。
久しぶりに旧お坊さんのチャンナにもアイデアを要請。以前連絡が取りたくて取れなかったSCC(Salvation Center of Cambodia)だとか諸々の情報を一気に送って来てくれた。
選挙監視団の通訳としてコンポンチャムへとすぐに出発だとか…。選挙も間もなく投票が始まるなぁ。

さて、亮君が戻ってから、また雑誌プロジェクトの連絡事項が活発になって来た。いいサインである。構想的には秋冬頃には創刊出来るのではないだろうか?
それで、この創刊に合わせて写真展を開くという案で、またやりとりが始まっている。

最近、本当に日本の事が全くわからない。随分と日本のニュースも見ていない。随分前にNHKが見れなくなって以来になる。
だけどこっちの番組で日本のアニメだったり、バラエティ番組を放送しているので、なるべく見るようにしている。
日本で見た事なかったので知らなかったけれど、えらく古い作品の様なので、日本はこんな感じなのか…と思っていたら、誤解もあるかも知れない。そうして、見終わった後に、大抵自己嫌悪に陥ってしまう。

でもそんな中で、この間まで放送されていたアニメで『るろうに剣心』と言うのがあったけど、これは面白かった。少年ジャンプで連載していた漫画だと知り、レンタルコミック屋まで行ってほぼ全巻読んでしまった程だ。(『ほぼ』と言うのは、悲しい事に無くされてしまった巻が何巻かあったので、読みぬけていたりする)
明治に入ってからも刀を捨てられない幕末の維新志士が主人公になっている漫画なのだけど、これは面白かった。94年に連載が開始されて数年続いたと言うから、ちょうど日本を離れていた時期だ。しかもこちらで、このアニメは『Samurai X』というタイトルになっていて、アメリカでも人気を博したという噂である。

 明治初頭。潰れかけの神谷道場に居候中の流浪人・緋村剣心は、実は維新派最強と恐れられた剣客「人斬り抜刀斎」だった。人を殺めた過去を悔やんで「不殺」を誓い、逆刃刀を愛用する剣心。全ての人を守ることはできなくても、せめて目に映る人たちの幸せをこの刀で守りたい――そう願って剣を振るう剣心だったが、その過去のため否応なしに大きな闘いへと巻き込まれてゆく。

赤報隊、人斬り、御庭番衆・・・
様々な立場で共に幕末を体験した者達との戦いの中を通して剣心が人斬りとしての罪を背負いながら明治に生きる姿を描く・・・
問答無用に強いヒーローが強敵を倒してゆく展開を大きな魅力として持ちながら、明治維新後という、多くの魅力的な人物であふれていたミーハー的人気の高い時代が舞台だが、この作品では、希望にあふれた新しい政府・新しい時代の裏で、相変わらず虐げられ苦しむ人々が存在したという点が強調されている。維新政府の暗い側面、教科書裁判で争点となった赤報隊の事実などが取り上げられている点は注目すべきだろう。

そんな、明るくはないけれどそれでもみんな一日一日を大切にしているという背景がしっかりとあってこそ、そこに生きる登場人物にリアリティが生まれるのだ。

剣心が挑まれ、挑んでゆく闘いは刀と刀のぶつかり合いである。この作品がとても重いものに感じられるのは、その闘いが実は信念と信念のぶつかり合いだからであろう。剣心が闘ってゆく数々の敵は、ただ殺し、奪っているものではない。それぞれが過去を持ち、そこで得た信念のもとに剣心と敵対する立場を取ったものだ。だからたびたび剣心は問い詰められ、葛藤する。剣心が、剣心の刀に敗れたものたちが、この先どのように歩んでゆくのか気になるところである。


真面目に横道にそれてしまったけど、一度興味があったら是非ご一読を。

…と、個人的な興味対象の幅の広さ(と言うより節操の無さ)の一部をご紹介しました。

さて、人とコラボレーションしてくと言うのは色々と難しい。
私は何度となく会ったこともない人とも衝突した経験がある。
譲れない部分を殺して妥協する事に対して極度なアレルギー体質で、人とものづくりをするのは向いてなのかも知れない…と思ったりする事もあるのだけれど、やはり神経が図太いのだろう。『これでいいのだ…』『これでよかったのだ…』とバカボンのパパ風に最終的には思い直す。後ろを振り向いても仕方ないし、成立しなかったのは『仕方ないと諦める程度の事』だったからだと思って割り切れる。

久々に一人…と思っていたら、ラオスから戻ってきたソテェープから連絡があり、彼が家にやって来た。奥さんのウサニーが来るまでずーっと、現在取り組んでいるあらゆるプロジェクトの事を話していた。

作品やその人のキャリアやポジションの前に『人間的魅力』があるから、一緒にやりたいと思うのであって、そうでなかったら、『私はやらないだろうな』と言う話をした。
しかも、そういう魅力的な人が『葛藤』している姿の『美しさ』に惹かれるから、更に『なんとか力になりたい』と思える。自分の能力はたかが知れているのに、こういう思いが重なると『志』は更に強くなる。

9月にタイ国内の取材をする彼に同行する事になっている。彼の魅力はまだまだ掴みきれていないけれど、以前、『何故?写真をはじめたのか?』と尋ねた時、いつもは眉間に皺を寄せて気難しい顔をしている彼が、
『自分が出かけた先々で見たものを、他の人にも見て欲しいと思ったからだよ』と今までにない嬉しそうな表情で話してくれた。
非常にシンプルだけれど、その中に全てが込められている。
私も彼が見たものを彼の写真を通して見た人間の一人である。そうして、それを更に他の人にも見て欲しいと思った。
こうして一緒に何かを始める事になって行く。

『人間的魅力』っていうのは、どういう事を言うのか?うまく説明出来ないけれど、そういうときの一瞬の表情で、感じられるものだ。

journal=youme.

7-20-2003 [3 days later]

そんな訳で、ニコラスとは久しぶりに会い、MKスキへ。
その後、ナナの界隈を徘徊しようと誘われたが、どうもあまり好きになれないエリアである。
そんな訳で、またまたブラウンシュガーへ。
ほとんどずーっとプロポーザルの話を聞いていた。

写真の展示について、見識の違いで意見が分かれた。
ドナーがあれば、影響力もあるかもしれないし財政的にも救われるけれども、手持ちでもやるという姿勢も『現状を変えたい』という思いであるのに代わりはない。
もう一つ、根本的な考え方の違いがある。
それは、「カンボジアの問題をカンボジア人が自ら解決していく」と言う事を目的に置いて、このプロジェクトを進めているという事。
どれほど有力なドナーが後押しをしたとしても、そこに暮らしている人々が、自分たちでなんとかしようという意識がなくては、絶対にその国の問題は解決されない。

そんな訳で、私と友人のチャー(カンボジア系アメリカ人のアーティスト+日記にも度々登場+今月のムービーの叫び主)で、この夏プノンペンで計画している事がある。
テーマは"Save your own people"。夏休みを利用してプノンペンに行く人にも、見てもらう機会があるかもしれない。
『プロポーザルの羅列した文字を見てもらうよりも、何がしたいのか?招待状を送るので、プロポーザル代わりに見て頂戴』と言う訳である。もっと具体的に企画が固まり、告知が出来る段階になったら、公表しますのでお待ち下さい。

今日は映画に…、見に行った映画の事についてはbbsの方に書き込みをしたので見て下さい。

それにしても、ラップトップパソコンの件でメールで連絡をくれていた伊藤さん。フリーのメールアドレスにメールが届いた知らせが家のメールに転送されてくるはずなのだが、時々うまく作動していない。今日たまたまフリーのアカウントにアクセスしたら、『バッタンバンの医師のパソコンについて』と言うメールが届いていた。着信が17日。そして19日にはプノンペンに向かう…とあって、急いでメールを送ったけれども、なんとも行き違いになってしまった。
こうして呼びかけに応えてくれた方がいるのに、なんという事か…。
とりあえず、こちらが返信したメールへのお返事を待っている段階である。運良く連絡が取れる事を祈りつつ…。

journal=youme.

7-19-2003 [日々のサイドストーリーは続いている]

日々のサイドストーリーは続いている。
15日にドクターはカンボジアへと帰っていった。その前にバンコックエアウェイズのオフィスに立ち寄った。結局現場のスタッフは判を押した様な対応しか出来る訳もなく、外国人記者クラブの副会長でもあるジニーに一筆書いてもらって、オフィスへと直談判しに行く事にした。
今後の経過はどういう風に進展していくだろうか。
それにしても、日本にいらなくなったラップトップを持ってる人と言うのは、いないんだろうか。壊れてないけど、新しく買い換えたとかで一つ二つ家に置いたままになっているのを持っている人…?、現時点で呼びかけに対して全く反応なし。引き続き、可能性を模索中なので一つ思い当たる節がある方はご連絡下さい。

そして、来客の日々は続いている。(重なる時は重なるものです)
エムポリウムに行ったら、偶然徹ちゃんと会ったのでお茶をする。来週には日本へ帰って暫く滞在するらしい。

先日知り合いになったドイツ人の学生ファビアンから連絡が来たので、夜家に来てもらった。
グラフィック全般を学ぶ学生の彼は、写真展に来てくれて、その後スライドショーにも参加してくれ、after workへ…という流れだったのだが、まだこれから将来を具体的にどうするか?を決める段階。
今回の写真展がとても刺激になった様で、話をしている間に「それなら、やっぱりまずバッタンバンから行こうかな」と言う事になった。ガールフレンドはお医者さんの卵だとかで、『彼女が数週間でも何か力になれることはないだろうか?』と言っていた。

人とお付き合いする中でも、いろんな人がいるけど、やっぱり「この人なら」と思って、自分たちの知り合いだとか、仲間を紹介出来る訳で、誰でも彼でもに『行って是非現場を見てきて!』とは言わないのは勿論の事。
ドイツから来た彼が、バッタンバンのエイズ問題と取り組み始め、母国に帰ってから何か始められるのならば、全力で力になりたいと思う。

『ドイツは乗り継ぎでしか行った事ないけど、デザインやインテリアに興味がある人なら誰しもが憧れる『バウハウス』があるよね…』と言ったら、
『僕の学校はそれなんだよ』とファビアン。
かなりびっくりしたのであったが、ドイツでは公立の学校に通う場合、授業料はゼロなんだそうで、それには更に驚いた。
バウハウスと言うバンドがかつてイギリスに存在したのだけれど、それもよく聞いていたものだった。自分の中で、この「バウハウス」はかなり特別な存在だったので、実際目の前にそこの学生さんが座っていると言うのは、なんとも個人的に不思議な感覚だったりしたのだった。

昨日はアチェの友人が昼間に家にやって来て、夜は読売の奥村さんのお誘いで、おいしい手打ち蕎麦を頂いた。色々と話が広がるので、非常に楽しいひと時であった。

さて、プノンペンの取材を終えたニコラスがこっちに戻ってきた。
今まではカオサンに泊まっていたけど、オフィス(アジアワークス)が遠いので、どこか近くで安い所を知らない?と聞かれ、宿の手配を担当する。
結局、家の前に泊まる事になった彼。ようやく今晩彼と食事をする事になった。

一方、亮君の写真展が明日から始まるという知らせと、サンフランシスコで出会ったテオが日本に行くというので、康さんと亮君をメールで紹介。亮君は電話で元気そうな声を聞かせてくれた。
某誌に彼のストーリーが掲載されるとの事なので、掲載日だとかが決まり次第、また宣伝するよ…と伝える。なかなかいい風向きの様である。

マサさんは来週からカンボジアへ。今回の企画はどうなるだろうか?
我輩は8月の中頃からカンボジアへ。チャーと一緒にバッタンバンのドクターを訪ねて行こうという計画をしている。
その頃までに、ドクターのラップトップ問題に明るい光がさしてくれるといいんだけれど…。

journal=youme.

7-17-2003 [サイドストーリー(かなりショッキングな出来事が起きていた)]

追伸:
こうした一連の「たのしい話」の裏に、実はかなりショッキングな出来事が起きていたのだった。それはまた後日…。
→[前回からの続き...] その出来事について。

今日で、カンボジアから来ていた友人が全員去っていった。
全部で約3週間程、その間に色々とあったのだけれど、今回は是非みなさんに助けて頂きたいので、『スセップ医師の鞄がアメリカに行ってしまった』事を書く。

スセップ医師はバッタンバン州立病院の感染病棟で働く医師である。
このドクターがバンコックで開催されるパネルディスカッションに参加する為に空路で到着したのが7日。
到着時間を過ぎても現れないドクター、その理由はチェックインした彼の鞄が、待てども待てども現れなかったからだった。
ドクターはこの件をクレームし、ようやく外に現れたのだったが、約1週間の滞在分の衣類だとか書類だとか入っていた上に、プレゼンテーション用に持ってきたラップトップも入っていたので、非常に幸先の悪い来タイとなった。

見つかり次第、パネルディスカッション会場の事務局へ届けてもらう事になり、とりあえず日々はなんとか乗り切った。

パネルディスカッションが終了した日の翌日の11日。荷物が届けられたので、受け取りに行った。
その場に居合わせた全員でかばんを開けた所、ドクターの大切なラップトップコンピュータが見当たらなかった。

大切なものはチェックインせずに手荷物にするのは当たり前の事だけれども、飛行機で旅慣れないドクターは、プノンペンの空港でチェックインカウンターのスタッフに言われるままに、鞄をチェックインした。
本来ならば、手荷物に出来るサイズの小さなカートがついたジッパー式の鞄である。

恐らく、プノンペンで盗られて鞄だけカモフラージュの為にアメリカに送られていったのでは?と思えるのだけれど、新しく『盗難』扱いで航空会社にクレームした所、無くなった荷物は重さ1キロに対して最高20ドルまで航空会社が保障するのが通常だと言われた。現在も捜査は続けられてはいるものの、航空会社がどれ程まで真摯に対応してくれるのか分からない。

フランス人医師から譲り受けたというFUJITSUのラップトップコンピュータ。
カンボジアの州立病院で医師をしているドクターが、ラップトップを自身で手に入れる事が難しいのは理解して頂けると思う。そして、大切なデータも無くなってしまった。

非常にシャイで言葉少ななドクターは、滞在中、みんなに心配をかけまいと自分からこの問題を口にすることはなく、明るく振舞っていた。

タイを去る前日、戻ってきた鞄に帰り支度の荷物を詰め込んでいた時に、彼がコンピュータを入れていた破れたビニール袋(コンピュータだけが抜き取られて無かったが、袋だけは鞄に入ったままになっていた)を見つつ、「僕のコンピュータは友だちみたいなものだったから、いつもどこへ行く時も一緒だった。たった一日プノンペンに行く用事でも持っていっていたから…」と言った。

大切な友人から貰ったコンピュータ。彼にとって、どれ程愛着があって大切なものだったか…、そうして彼の様な無垢な人が被害に遭うと言うのがあまりにも無情である。

手荷物にしなかったという個人の責任も十分承知の上で、あえてみなさんにお願いしたい。
みなさんの所に使わなくなったラップトップコンピュータがあったら、ドクターに寄付してあげてくれませんか?

彼が持っていたコンピュータはFUJITSUのものでモニタが14inch、HDDが5GBで、それ以上のスペックは覚えていないとの事。
HDDが5GBという事なので、数年前の製品だと思います。

『うちにありますよ…』という方、メールでご連絡下さい。心よりお待ちしています。

photo=Masaru Goto+journal=youme.
youme@mail.goo.ne.jp

7-10-13-2003 [サイドストーリー(二人のカンボジアの友人+スライドショーのその後の日々)]

因みにトークショーの後は、当日出会ったドイツ人の青年を交えてafter workという店にて打ち上げを行った。まさにafter workにふさわしい打ち上げであった。

それにしても、スセップ医師とアーティストのチャー。ずーっと、どこに行くにも4人で行動していたのだが、二人はここバンコックで初めて会ったにも関わらず、何故か漫才コンビの様で(大阪の阪神巨人みたいな感じ(ドクターは背が高く、チャーは背が低い))、しかも両人がボケ(ボケとツッコミのボケ役という意味あいでの言葉として使用)で、我々が突っ込みみたいな状態で、久しぶりに「おなかがいたい」状態で笑った日々だった。

ドクターは天然にユニークで、チャーはアメリカンブレンドされている為、ユニークさも強烈なものがある。今回アップしたムービーは昨晩(13日の晩)収録した。湧き上がってくる感情を抑えずに激しく露にする必要があるという事をチャーがドクターに説明している所である。

ドクターの天然ユニークに因んだエピソードをご紹介。

10日の朝、みんなで朝食をとりにレストランへ行った時のこと。私はパンケーキを注文し、目の前に座っていたドクターは麺を注文。
チャーとの話に夢中になっていた時の事。
気がついてみると、私のパンケーキ用に置かれていたはちみつ(プラスチックの容器に入っていた)をドクターが麺にかけていた。
慌てて「違う、違う!!これははちみつ…!!」と言った所、笑いながら彼は、結局砂糖を入れるつもりだったから…と、最終的には麺を最後まで食べほした。

その後、日本レストランで冷たい緑茶を注文した時の事。グラスに氷の入った緑茶と、急須がサイドで運ばれてきた。
またまたチャーと話し込んでいたのだが、緑茶を飲み干したドクターは、お代わりが欲しかったのかグラスに緑茶を注いだ…と思ったら、彼が手にしていたのは急須ではなくて、醤油さしだった。ドクターのグラスには真っ黒な醤油が注がれ、また「違う、違う!それはソイソース(醤油のこと)」と言った後に、大笑いになったのだった。

因みにチャーはゲイである。前回書いた男も女も関係なく…人として云々というのは、こういう所以であった。
彼の様にカミングアウトして胸を張っているゲイはカンボジアには少ない。タイは非常にオープンで対照的である。

ある時、マサさんがスセップ医師に(以下のやりとりは日本語ではニュアンスが伝わらないので、英語で書きます)
"Do you like him?"と尋ねた時、
彼は"Yes, I like him because he is normal"と答えたと言う。
それ以上は聞けず、マサさんはこの"normal"の意味をずーっと気にしていた。
その後、みんなでご飯を食べていたときにその話が出て、色々と笑い話をしていたのだが、マサさんが
"What do you mean he is normal?"と聞いた所、
スセップ医師が言うには、彼はカンボジア系アメリカ人だけれども、人を見下したりせずに平等に付き合っているという意味だった。"normal"は"equal"という事だった。

11日は、締切りが近づいていた企画書を書き上げ、なんとか5時に出来上がりEMSで郵送。それまで、彼ら二人はリビングでくつろいでいた。
夜はウサニー+ソテェープ夫妻がやって来て、みんなでMKスキに行き、終わってからは映画のレイトショーに出かけた。ドクターにとっては初めての体験。
本当は28days laterという架空の「感染症」をテーマにした映画を見たかったのだが(ある意味ドクターと繋がりがあるテーマだったし)、これが18日からだったので諦めて、ターミネーター3を見る。
それにしても、この映画は破壊して壊してデストロイしての連続で、薄っぺらい中味の全くしょうもない映画だった。が、ドクターにはよい経験だった様だ。

12日は朝からチャーの画材を買いに出かけ、彼らが王宮を見たいというので王宮へ。以前入った経験のある私は、入り口で彼らを待つ事にした。
その後カオサンに行き、帰宅。
写真展が5時に終了だったので、4時半過ぎには国際交流基金のギャラリーに行き、基金のスタッフの方々と片付けをした。30分で片付け終了。終わってみると、あっという間の事だった。
夜は夕飯に招待して頂いて、日本料理のコースをご馳走になる。
ここでも、また色々と話は尽きず、多いに笑った。

雨の中、我々はその後シーロムへ。ナイトバザールを見ていたが、場所を変える事にして、ジャズバーの老舗「ブラウンシュガー」へ。丁度、ライブが始まる前に席につき、女性のボーカルの上手さに圧倒され+堪能して帰宅。

13日。日々の色々が蓄積して疲れが出ていた二人。チャーがダウンした為に、我々3人だけでウィークエンドマーケットへ。お昼過ぎには一度帰宅して、体調が少し良くなったチャーも一緒に、ドクターのリクエストだった「動物園」へと繰り出す。
こういう機会でもなければ、ここに来る事はなかっただろう。
夜はまたまたMKスキへ。MBKで恒例のプリクラカレンダー版を4人で撮影して早めに帰宅。
家では、古い日本のテレビの再放送を見ながら、また色々と冗談を言いながら、チャーにとって最後のバンコックの夜が更けていった。

この4人の面子。不思議なのだが、夏休みになると遊びに行っていた田舎の家で集う親戚の子どもとのひと夏の時間とみたいな感じで、それぞれ全くもって大人だし、人生の背景も違うし、職業や社会的立場(って何?っていう気がするけど)みたいなものも違うのだけれども、なんだか成立している。非常に不思議な経験だったし、普段はかなり厳しい仕事に向き合っているにも関わらず、楽しく多いに笑える時間も共有出来ると言うことは素晴らしい事だと思う。

今度の4人揃っての再会はバッタンバンか?

早朝、チャーはバスに乗りアランヤプラテートへと出発して行った。
充実した日々に感謝。
 

追伸:
こうした一連の「たのしい話」の裏に、実はかなりショッキングな出来事が起きていたのだった。それはまた後日…。

digital image+journal=youme.

7-10(この間からの続き…)-2003 [きっと何か良い結果に繋がる]

センターに到着して間もなく、表の方から大きくガラスの割れる音が聞こえてきた。
大声で泣き叫ぶ少年が運び込まれてきた。
多量に出血していて、ファーザー・ジョーが見学に訪れたスセップ医師に
「君は医者なんだろ。じゃ急いで手当てして」と、医療用の手袋を手渡した。
急なことだったが、応急手当てを終えた少年は念のため近くの病院に送られていった。
原因は喧嘩だった。相手がひどい傷を負ったのを見てもう一人の少年も泣きじゃくっていた。

その後、センターを見学させてもらったのだが、政府の病院と連携してホスピスを運営している。
カンボジアでもそうである様に、結核を患っている患者さんが多かった。その為に、中庭があって、建物はどこからでも風が通る様に作られている。

ファーザーが近くに住んでいるカンボジア人の男性を通訳の為に連れてきてくれた。
このスラムには、カンボジアから来ている労働者もかなり多いそうだ。
前日、エイズセミナーで出会ったパタニから来ていたCAREのプロジェクトに関わる男性は、漁に出かける労働者たちに、HIVの予防教育をしていると言っていた。非常に流暢にクメール語を話す男性だった。パタニだけでも5万人のカンボジア人労働者がいるのだそうだ。

さて、ファーザー・ジョーは英語とタイ語を交えて色々と話しをしてくれた。
「この病気にとって、一番の薬は何だと思いますか?」と我々に尋ねた。
色々思い当たるのだけれど、一番というと何だろう?と思っていると、
「それは、食料ですよ。」と言っていた。カンボジアでは、薬が手に入らないだけでなく、まともに食事をしている患者さんも見かけない。

結局、3時間程滞在したのだが、後々聞いてみると、
「あなたたちはラッキーよ。通常、ファーザーがこれほど時間をかけてセンターを案内してくれたり、話をしたりする事なんてないんだから…」とジニーにも、ナースのウサニーさんにも言われた。

とある実業家とファーザーが出会い、粗末な造りだったセンターが見違える様にうまれ代わったのは、つい最近の事だと聞いた。

10日。スライドショーとパネルディスカッションの当日。
参加してくれた人の数は少なく残念だったが、3人の子どもさんをつれて来ている日本人のお母さんの姿があった。幼い3人のお子さんと一緒に参加してくれた事に感心した。

少なくとも、人の奥深くに触れ、その中から何かが生まれたらそれは素晴らしい事である。
写真の撮影自体は始まって2年になるが、独自のプロジェクトをこうして公開したのは初めての事である。
写真を撮るのは勿論大変な事だけれども、第一の使命でもある(と私個人が思っている事だけど)「伝える」事をしなければジャーナリストの仕事の意味を欠くと思う。雑誌だけでなく、写真展でもスライドショーでもウエブサイトでも出来る事である。

財政的に全く余裕のない我々にとって、写真展を開催するという事はかなりの難題である。
幸運なのは、技術提供でサポートしてくれたエプソンさんや、ギャラリー使用と広報に尽力を尽くして下さった国際交流基金のみなさん、日々の激務の中、1ヶ月かけて一生懸命プレゼンテーションを準備してくれたスセップ医師、自費でカンボジアからやって来て、ドクターの通訳をかって出てくれたチャー。会期中に受付をしてくれた女性、こうした人々に足りない部分を補って助けてもらっている事である。

コメントブックで頂いた感想から、今後も多くの人々に見てもらう機会があれば、きっと何か良い結果に繋がる方法と出会える様な気がした。
当面、バンコック市内の他のギャラリーで展示可能な場所がないものか?リサーチするつもりである。何かいい案をご存知の方がおられたら、ご一報下さい。

digital image+journal=youme.

7-10-2003 [自由奔放と隙無くかっちりと隅々まで]

友人のチャーが陸路で来タイのはずが空路で到着したのが8日。現在、うちのカウチで居候中である。因みに、バッタンバンから来たドクターはうちの前のホテルに滞在中也。

つい先頃、友人のウサニーから聞いていた「ナショナルエイズセミナー」に朝から行く事にした。彼女は日系の企業で働くのを辞めて、現在CDC(Centers for Disease Control and Prevention)で働いている。9月の中頃から、彼の旦那さん=ソテェープ(写真家)の彼と私とで、The Asian Elephant Art & Conservation Project (AEACP)のツアーに同行するという話になり、彼のスライドを受け取るのも一つの目的であった。珍道中になりそうだけれども、日本語でのストーリーを担当して欲しいという事で、身近な所で白羽の矢が立ったのであった。

それにしても、タイはチェンマイ以外にまともに行った事がない。
このツアーでは、少なくとも3箇所のキャンプ(象の村とでも言うか…)を訪問する事になっている。この象の描く絵は、10月に日本の川村記念美術館で展覧会が開催される事になっているので、多くの人が見る機会になるといいと思う。彼らは象に絵を描かせる事を真の目的としているのではなく、象使いと象の営み、古くからのしきたりに則って存在する彼ら自身の保護を目的としている。二人のロシア系アメリカ人のアーティストが始めたプロジェクトである。

と、話はそれたけど、この話はまた詳細が煮詰まり次第、日記にも登場してくる事と思います。

さて、ナショナルエイズセミナー。
コンベンションセンターは郊外にあってやたらと広く+そして寒く(冷房が効きすぎ)、ボールルームでパネルがない時には、スピーカーからカラオケ?と思える様なべたな音楽が大音量で流れてきたり、祭囃子隊みたいなのがドンちゃんしていたりして、タイでセミナーというと、こういう路線になるのか…。と感心。
国内の団体の活動を紹介するブースがあって、色々と趣向を凝らしたエイズ教育のプレゼンテーションもあり、3日間で、一体どれほどの人が参加し、どれほどの人に影響を与えたのだろうかと、このIMPACTの会場を見ながら考えたりした。

来年の7月には同じ会場にて世界エイズ会議が開催される。
張り出されているバナーが、自由奔放なタイのセンスを代表しているかの様だったが、恐らく、後で何か差し替え命令が入ったのか、オフィシャルなパンフレットやサイト上では、親子象が並んでる形になっている。バナーデザインは今日の画像のそれであった。

午後から訪問する事になっていたマーシーセンター(スラム地区のエイズホスピスセンター)でナースをしているウサニー(上記ウサニーと奇しくも同名)と30分程話した。
「我々がここまで来るのに10年かかっているんです。」と、現在の活動に至るまでの経緯を懇々と説明をしてくれた。10年の間の経験を、隙無くかっちりと隅々まで話して聞かせてくれたと言う印象であった。経験があるからこその自信に満ちた言葉。
誰に対しても、何に対しても臆さずの姿勢で活動を続けてきたのだろう。

12時を回ったので、マーシーセンターに引率しれくれるジィニーに連絡を入れ、3時に彼女のいるFCCTへ行く。
クロントイのスラムを訪ねるのは初めての事だったけれど、ここの近くには港があって、貨物船の関連で各地から労働者が集まってくるのだそうだ。

と、長くなりそうなので、また続きは後日…。

digital image+journal=youme.

7-8-2003 [いずれかの後に]

いよいよピセッがカンボジアに帰る事になった前の晩、すなわち昨晩、映画に出かける事にした。プノンペンでも映画館が軒並み営業を再開し、映画の看板を描いてる人にも会ったりしたのだが、それでもハリウッド映画がロードショーされる事はない。

サイアムディスカバリーのゴールデンシートに招待したかったのだが、一人500バーツというのに諦めて、普通の劇場で見る事にした。一人140バーツ。見たのはチャーリーズ・エンジェルであった。
私自身はハリウッド映画を否定したりしない。歴史やドラマ(日本語で言う【ドラマ】と英語のドラマは意味に大差があると思うけど…)があれば、スパイものや剣劇だってある。脚本があってキャストがいる限り、どれも創り上げられたエンターティメントでしかない。

それにしても、息もつけない程のあの手、この手のシーンにあっと言う間に終わってしまった。
始まりの王様への敬意も、カンボジアから来たピセッはどう思っただろうか。この国の王様は国民から愛されているという事になっている。映画館でも彼に会える程だ。でも何故だろう?

今朝早く、大雨の中、彼はカンボジアへと出発していった。

さて、取材に出かけていた亮君がマレーシア経由(ロンドン立ち寄り後)で日本に帰国と知らせてくれた。撮影はうまく行ったそうだ。暫く日記には雑誌の話を書いていないけれど、亮君の写真は多々差し替えが出て来そうだとの事だった。
雑誌の事も、亮君が復帰した事でまた回り出す事だろう。みんなのスケジュールがあるし、原稿が揃うのに時間がかかりそうだけれども…。「動」だったり「集」だったりする力を持っている亮君。頼もしい猛者である。

この雑誌企画に参加する亮君を含む4人の写真家。それぞれ個性的で、魅力的だと思う。
個人の愉悦の為だけではなく、向き合った人一人の思い、何十何百の人の思いを背負った彼らの写真からは、しっとりとした人の息遣いが伝わってくる。
大切なことは思いの強さ、深さではないのか、とつくづく考えさせられる写真。思いの違いが圧倒的に人一人の個性として出てくる。
それぞれ、文章を書く+話すのが苦手…故に写真を伝える手段として使っていると言っている。
やっぱり器用なのは良くない。何か一つに執着する心の強さも脆くなってしまう。
いいものを作りたいというこだわりが色々と遠回りを生む結果になることも多い。

それぞれ、ひけない部分を持っていながら、それでも一緒に何か創りだそうという気持ちを持っている。
いずれかの後に、きっと良い雑誌が出来上がるだろう…と確信している。

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7-5-2003 [真髄の写真]

そんな訳で、いよいよ写真展がオープン致しました。また機会が合う方は是非ご来場下さい。
疲労がピークに達しており、集中力も散漫気味。じっくりと睡眠したい。
と書いていたのは数日前。義務感に?駆られて書いていたけど、やっぱり手を止めてこの後眠り、ようやく土曜日の夜、一息が入れられた日曜日の手前にこれを書いてる所である。

金曜日の晩には、先頃肝臓ガンで亡くなったグレッグ・デービィスさんの写真展のオープニングに顔を出した。亡くなった知らせをメールで知らせてくれたピーター(アジアワークス)の文面からは、彼らがどれだけ親しい間柄であったかをとくと感じる事が出来、その事を彼に話した。「今晩は、僕がグレッグへのメッセージを読む事になっているんだよ」と言っていた。
奥さんのマサコさんとは簡単に挨拶を交わした。

グレッグさんの写真のステートメントは日本語にもなって写真展の頭に添えられている。
非常に印象的なので、こちらに転載(画像からのおこしです)
 

この写真のコレクションは一つの物語を構成する。
写っているのは、家族や友達以外には知られていない無名の人々である。
これらの人たちは自分の人生を自らコントロールするすべを持たない。物事を変えることも出来ない。それでもなんとかあるものだけで生活していく。
世の中を動かす大きな力の前で、これらの人々の意思は生かされない。
「欲」を目的として掲げる独裁的な企業と政治は、これらの「何でも無い」人々と、彼らをとりまく環境を抑圧し、利用し、コントロールする。人々の心を解放するかわりに閉じ込める。
人々はただ生き延びるために持てるものを使い果たしてしまう。
(中略)
しかし、このような試練のときにも、希望はなくならない。
そしてこの希望がいかに辛く見える人生でも、人々を繋ぎ、支えてゆく。
フォトジャーナリストと言っても色々だと思う。
被写体がフォトジャーナリストに託す思い。写真からの声は、被写体の思いだけでは届かない。フォトジャーナリストの心の深層において、たえず「真実を伝えること」に対し最強の想いを以って、カメラを握り一瞬を切りとる。そんな写真から、私は被写体の声を聞く。上手いとか、下手とかの次元の話ではなく、そんな一瞬一瞬を見た真髄の写真だった。

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6-27-2003 [アリに会いにアリへ]

ピセッが来てから数日が経った。もともとバッタンバン出身の彼なので+タイ語を習った事があるらしく、我々よりもタイ語がOKである。それに加えて放っておいても、自分で何でも出来るタイプの人なので、すでに自由に活動している。

近況としては、結局VCDを作る事にした(300バーツ)。これに音楽を乗せてもらったので、会場ではループして上映すれば良いという事になった。
それにしても一筋縄ではいかずに、パンティープと家とを往復したのが一昨日だったが、25日はJRSから招待されていた書籍刊行の記念パーティに参加した。当然、ピセッも参加。磯野さんも参加だった。
パネリストとして参加していたアリが(ジャカルタから参加)、26日には一路マレーシアへ出発するというので、一昨日の行ったり来たりの中にはJRSのオフィスも入っている。
アリに会いにアリへ行っていた。(←これが一人で気になっていた…)

アチェの話を聞いていたが、現在全くもって外国人がはいいる余地なし…の様で、最近連絡が途絶えていた友人たちの安否を尋ね、彼らが大丈夫だと言う事を確認できたのが良かった。

準備は着々と進行中である。

journal=youme.

6-18-2003 [ネイティブサン]

最近少し曇り気味の様子。
ようやくスライドショーの編集を終了。背景を伝えるイメージ、テキストの追加を行ったので、前よりも分かりやすくなったかと思う。

昨日はカレン+ジェリー夫妻がカンボジア出発前だと家にやってきていた。これから最低でも2ヶ月カンボジア滞在をする二人。
あちらには現在、同じアジアワークス仲間のニコラスもいるので、是非会って欲しいとみんなをつなげるメールを送った所、早速ニコラス@プノンペンからメールが届いた。
相変わらずプロポーザルを書いているらしい。『なんという仕事なんだろうか…』と書いてあった。

そういえば、先日亡くなったグレッグ・ディビスさんの写真展が来月外国人記者クラブで開催されるそうで、貴重な機会が楽しみである。

近況としては、7月に合計で3人、カンボジアから友達が来る事になった。
先述のピセッ、スセップ医師、に加えて今回プノンペンで出会った体ごとアーティストのチャー(Chath pierSath)。である。彼は表現したい事をあらゆる媒体で表現する。
その中の『絵』で私は彼に魅せられた。
初めて会った時、彼はリチャード・ライトのネイティブサンの文庫を持っていた。
11歳の時にタイ国境からアメリカへ難民として渡った彼は、現在プノンペンに戻って活動をしている。一緒にアメリカに渡った兄弟の一人は後にエイズで亡くなっている。両親はいない。
彼に今回のプロジェクトに対して詩を書いて欲しいと頼んだ所、心よく引き受けてくれた。
兄弟をエイズで失っている為に、他人事ではない部分もあり、思い入れが強いのだと言っていた。そんな彼は詩人であり舞踏家でもある。孤独な芸術家は、男も女もなく、人を人として愛する事の出来る純粋人である。

彼からは数篇の詩が届いた。以下はそのうちの一つ。
 

This body is only temporary,
a shell, a borrowed ship, a vessel leaving.
It can sink anytime, any moment.
I can’t see into the future,
what obstacles I must endure, what chances I should take,
what war I have to fight for my life. 
AIDS is now a war I face. I am losing, afraid and lonely. 
Who can help me? Who cares?
Am I an island in the middle of a sea?
Why do I hear voices of my children asking me to stay? 
Are they crying at my funeral?
Don’t leave, they say. We are too young.

Oh, hunger I cannot eat. Oh, life I feel like dying.
What is happening to me? 
How did AIDS come into my body?
I don’t want to know. I just want it to go away. 
I want everything to return to normal.
Tell me this is only a bad dream.


 

彼に会期中にバンコックに来れたらいいのに…とメールのやりとりの度に言っていたら、本当にやって来る事になった。
うちにはゲストルームが無いのが玉にきずなのだけれど、雑魚寝OKとの事なので、家で泊まっていくことになるだろう。
彼は因みに、Children of Cambodia's Killing Fields: Memoirs of Survivors, compiled by Dith Pran and edited by Kim DePaul (Yale University Press, 1997)内でも"A Letter to My Mother"(母への手紙)と題した詩を掲載している。この詩はオンラインを探しても読めなかったので、彼に聞いたら、添付して80数ページのファイルを送って来てくれた。
11歳以来、越えた事のなかった国境を、改めて見てみたい…と言っていたので、こちらに来る時にはアランヤプラテートを経由してやってくるのだろう。
バンコックでの再会が非常に楽しみだ。

本日は写真展の件でミーティング。出来上がって来たというポストカードの束を頂く。
Take it cardという所が制作をしていて、5000枚のうちの3000枚は巷に置かれているフリーポストカードで出回るのだそうだ。

今日は展示写真のサンプルを1枚持って行って、展示の仕方を試してみた。目玉クリップをフックに付ける感じでいい具合だった。
見てる側の目線から斜め45度位の高さに展示を希望しているので、丁度うまい具合になった。残り76個の目玉クリップを急いでゲットしなければいけない。

後はギャラリーでスライドショーを見せる際に、どう媒体化するか?という課題が残っている。
繰り返し見せるので、やっぱりビデオにして音楽も乗せて作り直すのがいいのかもしれない。
しかし…どうしたものか。DVDにした方がいいのか…。

今日は18日でマサさんの誕生日であった。最近はもっぱら節約の為に自炊続きだったが、今宵は外で食事となった。
うまい具合に25%オフになっていたケーキまで、今日は手が届かなそうである。

painting=Chath pierSath The Journey, 2001, oil and acrylic on paper, 52" x 48"
journal=youme.

6-12-2003 [バンコックに遊びにおいでよ]

兄弟の様な付き合いをしている友人ピセッにバンコックに遊びにおいでよ。としきりに誘っていた。
彼はプノンペンのサンウェイホテルで働いている。これからアメリカ大使館がホテル前に移転してくるらしいし、これからもどんどん登りつめて行くであろうと思わせてくれる気立ての優しい野心家である。
何しろ、彼と出会ってから6年位になるが、この6年だけでもどてらい進展があった。
バッタンバンにいた時には、洗濯が嫌いで毎日薄汚れたTシャツを着て、マサさんと前線地域で一緒に行動していたと何度も聞いている。
今では、パリッとした背広を着て、朝からホテルのロビーでクライアントとミーティングをする清潔感溢れるセールスマネージャーなのである。

今回少なくても2週間。気に入ったら3週間いようかな?…と言っていて、彼らしいと思うのは、その間に何かパートタイムジョブがないだろうか?とメールに書いてあった事だった。
何しろ勉強家なので、ここにいる間に、かつて習ったタイ語を試したいし、人々がどうやって働いているのかを見てみたいらしい。お金は大して重要な問題ではないとあった。
そんな訳で、彼は6月23日から我が家にホームステイする事になっている。非常に楽しみな数週間。滞在中に写真展が始まるし、うまく行けば10日のパネルディスカッションにも間に合う。

とまでは朝快調に書いていたのだが、他の用事が始まって手を止めたら、復活した現在午後10時過ぎに…はて?何を書くのだったか忘れてしまった。

現在はスライドショーの準備の為に、再度イメージのチェックとテキストを更に追加して順番を決める作業をしている状態。
わかりやすくしようとイメージを増やしたりテキストを増やすと、問題の本質が見えなくなって来てしまった。結局分かりにくくなってしまった。ここは再度振り出しに戻って、初版に忠実に練り直す事にしよう。

バンコックに帰ってきてから、排気ガスにやられて喉がすっかり痛い。やっぱり、ここの空気は体に悪い。我が体は正直者なり。

夜は徹ちゃんがやって来た。今月末からはイラクへとご出発だそうだ。

夕飯を食べてから、再びスライドイメージ編集に取りかかったのであった。
で、またこの作業は明日へと続く…訳です。

jorunal=youme.

6-9-2003 [あなたたちは大切な友だちを失いつつある]

カンボジアにいる間も、帰ってきてからも、そして今も…、なんだか日々バタバタです。
今回は事前に更にバタバタしない様に、日々一つ一つ7月の写真展の準備を進めている状況で、先日はエプソンさんにお邪魔して、一番の大山仕事を終え、これには本当にホッとした。
何しろ想像していた約1MX2Mと言うサイズは実際には非常にでかく、かなりの迫力である。
ポスターを作った時のデータファイルはMではなくGバイトになっていて、プリンタにデータを送信するまでにもずいぶんと時間がかかった。
しかし、デザインしたものがこれほど大きく出来上がると非常にうれしいものである。
特大1枚に大を6枚。

結局、ロール紙を1本使いきり2本弱使用させてもらい、途中インクを1本交換。尋ねると、その費用も半端なものではなく…。ありがとうございます。エプソンさん。

日々作業の傍ら、また来客ラッシュが続いていた今日この頃。
友人夫妻のソテップさんが、象の件で家にやって来た。彼が非常に興味深い本を持ってきてくれた。ロシア人の男性二人が象にペインティングを教えているというプロジェクトで、個人的には興味津々の内容だった。彼は今もクーイと象のストーリーを追い続けていて(このお話をもう一個のプロジェクトの方で公開する予定なのだが、関連本を読み終えてないし、バタバタが終わり一人になって集中出来るまでは取りかかれない)一緒に現地に行って、ストーリーを日本語で書くのを手伝ってくれないか?というのがメインのお話であった。
タイの田舎には行ったことないし、この象のお話しは興味津々なので、喜んで!と言ったのと同時に現在の自分のアジェンダを彼に伝えた。今すぐにはちぃっと無理なのである。
因みにこの象のペインティングは9月に日本で展示会があるらしく、それに合わせてストーリーが出来たらいいのかも知れない。またこの件については話しを重ねて行こうという事になった。

徹ちゃんが、我々がカンボジアに行っている間にパリから帰ってきていた。
パリでは収穫があった模様。
頼んでいたチョコーレートを律儀に買ってきてくれたのが彼らしい。

カンボジアにいる間に『今、バンコック』とアメリカ人カップルジャーナリスト、カレン+ジェリー夫妻からメールが来ていた。来る前には何も知らせてくれず、来てからのサプライズお知らせだった。
土曜日のお昼にランチを一緒にする事になった。
バンコク週報の磯野さんも誘って、徹ちゃんも来て、タクシーに6人乗りでセントラルへ向いフードロフトで食事をしたのだが、元気そうで何より。
カメラはもうライカでマックも新しいibookを買っての再登場。
ライターのカレンは出版社が決まったので本を出す事になっていて、今回はまずカンボジアへ行き数ヶ月滞在、最終的にはチェンマイを拠点にする事になっている。
そんな訳でカンボジアで仕入れてきた情報を伝達。
そういえば、ジェリーはアジアワークス所属。今カンボジアにいるニコラス(バンコックに帰る時に在ポイペットだった彼と会う計画は失敗した)がプノンペンに移動したので、同じアジアワークス仲間なので会ってみたらと提案した。
彼らからはそれぞれにアメリカ土産が託されたのであった。

アチェからもメールが来た。
『私たちの事を忘れてしまったのか?あなたたちは大切な友だちを失いつつある…』とあった。
『我々個人では活動に限りがある。決してアチェの事を忘れている訳ではないけれど、今は行けない。どうか、だからと言って友だちでないと思わないで欲しい』
どうしようも出来ない状況を書いて返信した。

それでも、やっぱり何も出来ないのに納得が行かずにネットワークメンバーにメールを送った。
『友人たちは約束を守れない私たちに失望している。せめてバンコックやアメリカでフォトキャンペーンを再び開催出来ないのだろうか?我々外の人間が出来る事をそこここでやるべきなのではないだろうか?』と。
このメールに応えて協力をしたいという返信が届いているが、この手の活動をオーガナイズすべきはずの団体のメンバーからは、この時点でまだ返信が届かない。

journal+digital images=youme.

5-22-2003 [but we are working on it]

そんな訳で、いよいよ今晩からカンボジア。
写真展のプリントは色々と問題もあって終了していないので、戻ってからプリント作業が続行になった。
帰って来てからまた3日程…。

昨日は朝一にActionaidのオフィスを訪ねて、デヴィッド氏にCDRを渡しに行った。
ポートフォリオ作りがどんどん凝った状態になって来る。
運良く、この間尋ねていたBROKEN LANDSCAPEの本が入荷したと言うので、1冊購入した。

'I am not saying our society really accepts people living with HIV/AIDS with all their hearts. People are still being stigmatized by the community and by some relatives, but we are working on it.'

Mary Musesengwa, Voices and Choices, Zimbabwe
 

とquoteが収められていた。励みになった言葉であった。

journal=youme.

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